7. 日本の顕微鏡
7-2 国産顕微鏡の夜明け
こうした中、国産の顕微鏡を作ろうという機運が盛り上がってきます。工業的に量産された最初の国産顕微鏡は、田中杢次郎が1907(明治40)年に製作した「田中式顕微鏡」(600倍)で、大正時代まで製造が続けられました。また、1910(明治43)年には加藤嘉吉(レンズ担当)と神藤新吉(機械担当)が共同で顕微鏡の試作に着手し、寺田新太郎の尽力もあって1912(大正元)年に第1号機を完成させました。その作業には大変な困難を伴いましたが、特に対物レンズはライツのものを分解し、適当なガラス材料を選んで作ったレンズを一枚ずつ取り替えて組立て・評価するという、気の遠くなるような試行錯誤の連続でした。
これを1914(大正3)年に開かれた大正博覧会に寺田の名前で出品したところ、医科器械の輸入販売をしていた松本福松 の目にとまり、3人と交渉の結果事業として発展させることにしました。 この顕微鏡を、松本・加藤・寺田の頭文字から「エム・カテラM.KATERA」 と名付け、乾燥系600倍の仕様で同年9月から発売しました(図34)。
たまたま、この年に第1次世界大戦が勃発し、ドイツからの輸入がストップしたことも重なり、市場を独走するという幸運にも恵まれました。エム・カテラはその後、1934(昭和9)年に千代田顕微鏡に改称し、1942(昭和17)年には新会社・千代田光学工業(株)(松本福松社長)として新しく発足しました。
一方、貿易業の常盤商会に勤務していた山下長(たけし)は、砂糖の輸入のためジャワに行った時にこのエム・カテラを持参し、オランダ人医師に見せると、彼らが使う外国顕微鏡に遠く及ばないことを知らされます。そこで彼は顕微鏡作りの意欲に燃え、1919(大正8)年に高千穂製作所(現在のオリンパス(株))を創設しました。技術部門は山下の知人であった寺田新太郎が担当、レンズと組立調整は加藤の指導を受けた鈴木泰一が受け持ち、翌年には1号機「旭号」を発売します。1921(大正10)年からは「オリンパスOlympus」の商標を採用し、その後数多くの種類の顕微鏡を製作、1934(昭和9)年には苦心の末わが国としては画期的なアポクロマート対物レンズ(図35)を完成させました。
また、加藤嘉吉は1921(大正10)年にカルニュー光学器械製作所(現・島津デバイス製造(株))を設立し「カルニューKalnew」の商標で、1927(昭和2)年には、鈴木泰一が高千穂製作所から別れて東洋光学工業を設立し「エリザEliza」の商標で、1935(昭和10)年に高千穂製作所を退いた西野邦三郎らが八洲光学工業(株)を設立し「ヤシマYashima」の商標で、それぞれ顕微鏡の製造・販売を開始しました。また1940(昭和15)年には、石井春吉が顕微鏡部品の製造を目的に協和光学を創立しました。
このようにエム・カテラを開発した3人とその技術は、その後の我が国の顕微鏡工業発展の礎となったのです。また昭和の初期にかけて多くの国産顕微鏡メーカーが誕生した背景には、当時の国家方針として国産品愛用が打ち出され、また最大の需要者である陸海軍が徹底した国産顕微鏡の採用に踏み切ったことも挙げられます。製品の品質が格段に向上したこともあって輸入は急激に減少しました。
光学産業として特筆されるのは、1917(大正6)年に海軍の要請と岩崎小弥太(三菱合資会社社長)の決断により、東京計器(現・トキメック)・藤井レンズ・岩城硝子の3社が統合し、光学兵器の製造を主たる目的とした日本光学工業(株)(現・(株)ニコン)が設立されたことです。1921(大正10)年にはドイツ人技師8名が招聘され、レンズ設計などの指導に当たりました。1923(大正11)年には、光学ガラスの溶解を開始しています。また1932(昭和7)年には、写真用レンズも開発し「ニッコール Nikkor」と命名されました。顕微鏡も一時的に作られましたが、本格的な製造は戦後になってからのことです。 一方、東京光学機械(株)(現・(株)トプコン)も陸軍の要請により1932(昭和7)年に設立され、双眼鏡や測量機、光学兵器の製造を開始しています。
こうして顕微鏡を含む光学産業全体も、戦争が近づくにつれ軍需一色となり、光学兵器への製造転換が進められるようになりました。やがて戦局の悪化にともない、各社とも空襲の被害を受け、あるいは工場の疎開を余儀なくされるようになり、1945(昭和20)年の終戦を迎えることになります。
以上を以って日本顕微鏡工業会の「顕微鏡の歴史」の記載は終了となります。
長野 主税