4. 光学性能の進歩
望遠鏡や顕微鏡は、対物レンズとして凸レンズを使いますが、発明当初はもちろん単レンズでしたから、色のにじみ(色収差)や像中心のぼけ(球面収差)により、明瞭な像を観察することはできませんでした。望遠鏡では対物レンズの焦点距離を長くすることによってこの解決が図られ、数十メートルもの長大なものまで製作されました。光の屈折が色によって異なるという現象を発見したニュートンI. Newton(イギリス)は、レンズでは色収差の除去は不可能と考え、凹面反射鏡を対物レンズとする反射望遠鏡を製作しました(1671年)。この反射望遠鏡によって天文学はさらに進歩を遂げることになりました。
一方、当時の技術では顕微鏡用の反射対物レンズなどは不可能であったため、光学性能の進歩は長い間ほとんど見られませんでした。こうした中、1729年にホールC.M. Hall(イギリス)が、異なる屈折率と分散をもったガラスで作られた凸・凹レンズを組み合わせることによって色収差を解決した色消し(アクロマート)レンズを発明しました。1758年にドロンドJ. Dollond(イギリス)は、色消しレンズの特許を取得すると、まず望遠鏡用にこの色消し対物レンズを作りました。その安定した性能と使い勝手の良さから、再び屈折望遠鏡の時代を迎えることになりました。顕微鏡にも色消し対物レンズが試みられましたが、微小レンズの加工が難しいこともあって、試作品の発表はあっても普及するまでにはまだ時間を要しました。
19世紀になると、医学校や大学などで顕微鏡を使った医学や生物学の研究が始まります。これにともない顕微鏡の性能も徐々に改良されてきました。顕微鏡の実用的なアクロマート対物レンズを最初に製作したのは、リスター J.J. Lister(イギリス:図14)やアミチG.B. Amici(イタリア)です。リスターは高い倍率の顕微鏡を作る場合は、対物レンズの開口を大きくする必要があると考えていました。
彼は2個の平凸色消しレンズを適当な間隔で配置すると、比較的大きな倍率でも球面収差や色収差の少ない対物レンズ(図15)が作れることを見いだし(1830年)、協業のロスA. Rossを始め多くの顕微鏡製作者に供給しました。また彼は、高倍率の対物レンズでは標本のカバーガラスの厚さが性能に影響することを見出し、対物レンズ内のレンズ間隔を調整することでこれを補正する機構を考案しロス社に作らせました(1838年)。この方式は補正環として現在も高倍対物レンズ(油浸でないもの)に採用されています。
一方、アミチは標本側に半球レンズを置くことによって更に高い倍率の対物レンズ(図16)を開発しました(1837年)。また彼は、凹面鏡を使った反射顕微鏡を作り(1820年)、またブリュースターD. Brewster(イギリス)が1813年に提案した液浸レンズ(標本と対物レンズとの間を水などの液体で浸し分解能を改良する方法)も製作しました(1850年)。
この頃よりレンズの設計・製造は新たな発展の時期を迎えます。フラウンホーファーJ.v. Fraunhofer(ドイツ、図17)は光学ガラスの溶解技術を学び、太陽スペクトルの暗線(フラウンホーファー線)を基準として測定した屈折率データに基づいて光線追跡法によるレンズ設計を行い、更に自ら開発したレンズ加工・検査方法により屈折望遠鏡の大口径対物レンズを製作しました(1824年)。
またペッツヴァルJ.M. Petzval(オーストリア)は1840年に理論的計算によりF3.6という驚異的な明るさの写真レンズを設計し、フォクトレンデルVoigtlaender光学会社がこれを製品化しています。1855年に光学系の5収差(3次収差)理論を発表したザイデルL.P. Seidel(ドイツ)は、シュタインハイルSteinheil光学会社で光線追跡公式に基づく設計を行っています。このように19世紀中盤には、望遠鏡や写真用のレンズが近代的な設計・製造工程により作られ始めました。
しかし当時の顕微鏡レンズは、イギリスやイタリアを中心に職人の腕とカンによって作られていましたので、その性能を更に向上し安定して生産するためには、理論的な裏付けと設計・製造法を確立することが必要でした。
このころイギリスでは、前述のロス以外にも、スミスとベックJ. Smith & R. Beck、ポーエルとリーランドH. Powell & P. Lealandらが顕微鏡製作で活躍しており、世界をリードしていました。1837年ワトソンWatson光学会社の設立に呼応して1839年には顕微鏡協会(1866年には王立(Royal Microscopical Society :RMS)となる)が創立され、学者と業者が提携して顕微鏡の改良に取り組みました。けれども19世紀終盤に顕微鏡の近代的工業生産を最初に確立し圧倒的優位に立ったのは、そのイギリスではありませんでした。