顕微鏡の歴史

ここから本文です

5. 顕微鏡の近代工業化の始まり

19世紀中盤には欧米各地で顕微鏡製造の創業が相次ぎました。中でも1846年、ドイツ・イエナJenaにカール・ツァイスCarl Zeiss(図18)が光学器械の製造会社を設立したことは、その後の顕微鏡の歴史を大きく発展させる発端となりました。彼はイエナ大学の著名な細胞学者シュライデンM.J. Schleiden の指導・支援により顕微鏡の性能向上に努め、業績も順調に伸ばしましたが、理論背景のない製造手法に疑問を持っていました。

そうした中で彼は、イエナ大学講師で若き理論物理学者のエルンスト・アッベ Ernst Abbe(図19)に出会いました。アッベはツァイスの懇願を受け入れ、1866年からは大学勤務を続けながらツァイスに入社し、顕微鏡の光学理論研究に着手しました。そして、開口数の概念を導入した顕微鏡の結像理論(1872年)、効率よく照明するためのコンデンサレンズ(1873年)、高屈折率オイルを使った均質油浸法(1877年)、各種測定法の研究や測定機の開発など次々に完成させていきました。

さらにアッベは、1879年に知り合ったオットー・ショットOtto Schott(図20)と協同で多くの高屈折率光学ガラスを開発しました。1882年にはイエナにガラス研究所を設立し、優れた光学ガラスを製造できるようになり、対物レンズの性能を更に高めることに成功しました。そして1886年には、凸レンズの材料に天然蛍石(CaF2)を採用することにより、色収差を大幅に改善した最高級の油浸アポクロマート対物レンズを完成したのです。

図18
図19
図20

この対物レンズは、まだ視野周辺の色収差や像の平坦性が完全ではなかったため、対物レンズと接眼レンズとの組み合わせで補正し、コンペンザチオン接眼レンズと称してアポクロマートと同時に発表しました。対物レンズの性能向上にともない、顕微鏡の倍率が高くなるとピント合わせに微動調整装置が必要となり、また微調整が可能な標本の位置出し装置を載物台(ステージ)に取り付けました。倍率の低い対物レンズも同時に取り付けるため鏡筒に倍率転換器(レボルバ)を組込みました。こうしてツァイス社の顕微鏡は近代的なスタイルを完成させるとともに、製造の工程能力の向上も進め、高い品質の顕微鏡を安定して供給することにより世界的名声を確立したのです。

図21

さらにツァイス社では、ケーラーA. Koehler(図21)の発明したムラのない照明法の導入(1893年)、グリノーH. Greenough(アメリカ)の発明した実体顕微鏡の開発(1897年)、ジグモンディR. Zsigmondy(オーストリア)らによる限外顕微鏡(暗視野法)の開発(1903年)、ケーラーによる紫外線顕微鏡の発表(1904年)、レーマンH. LehmannとジーデントップH. Siedentopfによる蛍光顕微鏡の開発(1913年)、ルスカE. Ruskaの考案による電子顕微鏡の開発(1931年)、ベーゲホールトH.Boegeholdによる像面の平坦なプラン対物レンズの開発(1938年)など、顕微鏡部門で常に世界をリードし続けました。

一方アッベは、ツァイスが永眠した翌1889年に自らの財産を全額寄付しカール・ツァイス財団を設立しました。労働者の平等な評価、8時間労働制や有給休暇、年金制度など当時としては画期的な社会保障制度を導入し、学者としてのみならず経営者としてもその功績は高く評価されました。また彼は、顕微鏡が人類の福祉と科学の進歩に貢献する道具であることから、特許を取得しなかったこともその後の光学機器の発展につながったことも忘れてはなりません。

カール・ツァイス財団は、顕微鏡以外でもルドルフP. Rudolfによる高性能カメラレンズ(プロター1890年、プラナー1896年、テッサー1902年など)や35mmカメラ・コンタックスIの完成(1932年)、グルストランドA. Gullstrand(スウェーデン)の考案による検眼装置・スリットランプの開発(1911年)、非点収差の少ない眼鏡レンズ(商品名:プンクタールPunktar)の発売(1912年)、バウエルスフェルトW. Bauersfeldによるプラネタリウムの完成(1923年)など様々な光学機器を開発し、総合光学メーカーとして世界を牽引しました。

一方、ケルナー C. Kellner が1849年にドイツのウェッツラーWetzlarに創設した顕微鏡工場を1869年に引き継いだエルンスト・ライツErnst Leitz Iは、水浸対物レンズや高倍対物レンズの製作により業績を伸ばしました。アッベに対抗しカール・メッツ Carl Metz を招聘すると、高解像対物レンズの設計製作に成功し、油浸系レンズにはパンタクローム(セミアポクロマート)の名称をつけて普及させるなど、顕微鏡のコストパフォーマンス向上に努め、ツァイス社と共に顕微鏡のリーディングカンパニーとなりました。顕微鏡以外では、ライツでは1913年にバルナックO. Barnackが、当時映画用だった35mmフィルムを使った小形カメラを試作し、ベレークM. Berek設計のレンズとともに1925年よりライカLeicaの商標で発売を開始しました。ライカカメラはその優れた描写力と使い勝手のよさ、そしてたゆまぬ改良によりたちまちカメラ市場の最高ブラ ンドに成長しました。

このほか、アメリカでも1847年、バッファローBuffaloにスペンサー C. Spencer(後にアメリカン・オプティカルに名称変更)が、1853年ロチェスターRochesterにボウシュ・アンド・ロム J. Bausch & H. Lomb がそれぞれ光学会社を設立し、顕微鏡の生産を始めました。またオーストリア・ウィーンに1876年ライヘルト C. Reichert(ライツの義弟)が光学器械製造会社を設立し、顕微鏡の製造を始めました。さらにスイスでは、ウィルドH. Wild社が1921年に光学機器会社を設立しました。これらの4社は、現在いずれも合併等を経てライツを改称したライカの顕微鏡部門として存続しています。

図22

19世紀後半からのこのような顕微鏡の飛躍的な進歩は、科学や産業の発展、とりわけ医学・生物学に多大な貢献をしてきました。特に、病原体微生物と免疫の関係を明らかにし、各種ワクチンを開発したパスツール L. Pasteur(フランス:図22)、炭疽菌・結核菌・コレラ菌等を発見し、細菌培養の基礎を確立したコッホR. Koch(ドイツ:図23)、血清療法を開発しペスト菌を発見した北里柴三郎(図24)、赤痢菌を発見した志賀潔(図25)、梅毒スピロヘータを純粋培養し、黄熱病の研究に成果をあげた野口英世(図26)らに代表される、伝染病病原体の顕微鏡による同定と治療法の確立という細菌学の発展と密接に結びついています。

図23
図24
図25
図26